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演奏を聴く位置

参加しているオーディオコミュを見るとコンサートホールで最前列で聴いた時の感想が書かれていた。一人はコンサートホール初心者? もうひと方は超ベテランの方と2件の記事である。

やはり聴く人の嗜好や音楽にたいしての捉え方等で感想も違うのだと興味深く拝見した。(最近は興味のある記事が殆ど無いのでスルー状態であったのだが)
もちろんオーディオ絡みであるので単純な音楽批評とは違う視点からの感想であり一見 お二方とも同じような意見とも思える内容であったが裏読みするとそれぞれの嗜好の違いが極端に表れているようにも思えた。

この記事はクラッシック演奏時との事である キタサンはコンサートホールは殆ど行かない というのもジャズは大きな会場では野外コンサートを除いては非常に少ないので行かなかったというだけである。昔 某ホールでソニー・ロリンズのコンサートがあり2階席の真ん中より左側で聴いたことがあるがものすごく違和感を覚えた。大きな会場になると(大きくなくても)PAでの過剰な音出しが迫力があるように思えるのだがジャズの熱が全く伝わらなく今一つの印象であった。それではその会場の真ん前 最前列で聴けば良かったのかと言われればそれも疑問である 奏者がより近くにいるが壇上との段差があり下から見上げるような感じでこれまた視覚的にも不自然でありおそらく変な感じに捉えたであろう。

それでは昔よく通っていた比較的小さな会場、ライブハウス、バーなどでの演奏時はどの位置にいたかと言うと端っこの席が好みであった(-_-;)
別に通ぶってわざわざ視聴環境のよくない端に席を取っていたわけではないが 何となく眺めているのが好きなだけである。ここでもよく書くことだが音楽は好きでも嫌いでもない 演奏者と一体になり楽しむという事は昔からしない そもそも音楽自体よく分からないし音楽より人が懸命に動く姿が好きでその動きの方に注目する癖?があった。
ジャズを聴く人は正面の真ん中 なるだけ奏者に近い位置で音を浴びるように聴く人も多い そうしないとジャズの熱気、勢いが感じられなく快感が薄いという人も見かける
でも自分は昔からそのような感覚はない 奏者と聴き手が分断した音楽はある程度俯瞰して聴いた方が安心する それはクラッシックの聴き手によく似ているのかもしれない。

奏者を芸人と呼んでいいのかどうか分からないが音楽と言う芸事を行える人なので芸人と呼んでも良いような気がする クラッシックなんかは王侯貴族の余興でもあったのでいくら奏者、演者が一生懸命行っていても階層の違う貴族等は自分たちの自慢話に夢中になりロクに演奏を聴いていなかった。ジャズも白人たちに聴かせる音楽としてどこか媚びて銭を稼ぐためには仕方がないという感じでもあった。今は立場が変わりシッカリ聴かない客は客ではないと思う奏者や演者も多くなった 逆にそういう人達に媚びする聴き手も多い 音楽に格差は付きものだったのが今ではお互いに意見を言える平和なものになってしまった。

視聴する位置が会場の端っこの変な席を好むというのも 奏者には媚びしなく寄り添わない、かつ自分には出来ない演奏を提供してくれる奏者をリスペクトするその立ち位置(立場)が自分的には端っこという場所が妥協点であると体が知っていたからなのかもしれない。

尚 自宅オーディオに於いてオーディオ機器が鳴っていない隣の部屋や台所へ行ってわざわざ?聴くのはセッティングやら視聴環境を金科玉条の如くいうオーディオに対しての反論でもある。(セッティングや視聴環境の吟味等行うのは個人の自由で大いに結構だと思っている)

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これのモノラル盤が欲しかった…ロリンズとコールマン・ホーキンス新旧テナータイタンの競演。尖った演奏をするこの時代のロリンズはジャケットの描写といやにマッチしている ジャズは個性の音楽というのがこのアルバムではよく分かる アルバムオリジナルには執着しなくなったがモノラルでのリリースは再発では無かったような気がする いつか手に入れたい。

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by kurama66644 | 2018-06-24 10:07 | オーディオ | Comments(0)

肉体としてのジャズ

最近は昔の(60~70年代)ジャズ評論、批評を読むことが多くなってきた。その時代は実際自分も生きていたがジャズには無縁でありその当時の人はどういう感覚でジャズを聴いていたのか興味がある そういう中で 中平卓馬さんの「肉体としてのジャズ」が中々面白かった。

中平さんは肉体が本来持っていたエロス(笑)ー無限定な性の発散、暴力、歌、踊りといったものは個体内部に於いては抑圧され、ひきのばされ、こまぎれにされてしまった、そしてその代わりにそれぞれの専門分野が出来 中性化されてしまった それを眺めるもの鑑賞するものと化して欲望の代償行為として受け入られる。と述べている。
何やら難しい事を言っているが結局は自らの肉体を使っていなく代わりを求めているので肉体自体は喪失している 空っぽであるという事なのだろう。
そうなると今の時代はさらに代償行為を求めてばかりいるのでその空っぽさは大きくなって身体は単なる「精神の容器」といってもよいような気がする。

「ジャズは文化であり芸術としてもてはやされるようになった」(この時代でもそうであったのか?)と中平さんは続けている「ただし聴衆を聴き手、奏者を演奏者と化した姿ではジャズが本当に幸福かどうかわからない ジャズが芸術としてに地歩を固めれば固めるほど演奏者と聴衆との距離は離れていく それは本来のジャズからその本質的な肉体性を失わせることになるのではないだろうか」
これまた難しそうなことを言っている(-_-;)昔の人は理屈っぽい事を話すのが好きなのか? でも何となく分かる気もする。演奏者と聴衆と区分することで肉体的にも精神的にも中身が薄れていくような感じにはなる 演奏という専門の分野が出来それが本来なら自らの肉体を使ってやるのが道理であるのに代わりに行ってもらい自分は聴衆として見て聴いている分には感動はするがその度合いは減るんだろうな~

昔 レイ・ブライアントというピアニストが演奏を始める前にキタサンとその友人の隣で演奏仲間と知人かナンパしたのか知らないが何人かの若い女性達とワイワイ騒いでいた姿を思い出す。
キタサンも最初はそれがレイ・ブライアントとは知らなく陽気な外国人のオッサンかと思っていたのだが演奏開始時間になるとスクッと立ち上がり演台のピアノの方に向かった時はカッコよかった~。実際の演奏よりバカ騒ぎしていた姿の方にジャズを感じた その後レイ・ブライアントのCDを何枚か購入しミニコンポで家で聴いたが普通だった(笑) それから20年後に生意気にもオーディオ装置なるものを揃えてジャズを聴いているが演奏者と聴衆の関係のジャズはジャズではなく普通の音楽である。かろうじてその当時 演奏していた奏者の指使い、汗、体の動き等思い出しながら「肉体としてのジャズ」を想起し普通の音楽と化したジャズを今ではのんびり聴いている。
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レイ・ブライアントのLPは現在これしか持っていない。オスカー・ピーターソンの代役として予想外の喝采を受けたこちらのライブアルバム 地味だったレイ・ブライアントが脚光を浴びるきっかけとなったアルバムである。72年というモダンジャズにとっては中途半端な年代である それゆえCDと同じぐらいの価格で手に入る名盤である。コンサートやライブではサインを貰わない代わりに握手してもらうことにしている、レイの手はそれほど大きくない印象であったがとてもふくよかな感触であったのは今でも覚えている。

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by kurama66644 | 2018-06-23 09:22 | ジャズ | Comments(0)

なんちゃってモノラル再生 Part2

挫折したモノラル再生をなんちゃってレベルでお試しでやってみると これが中々ツボにはまり楽しく聴ける。

なぜこんなに楽しく聴けるのかと言うとモノラル再生の思い込みを無くしたからのような気がする。
つまり半世紀以上前の録音なので当然現在のステレオ再生とは違う技法で再現しないと本物の?モノラル再生が出来ない、当時の機器類、そのやり方でないとダメであると勝手にこちらが思い込みをしていたようだ。

音楽は物語を読むが如く再生するものであると思っている。現在のオーディオ再生(ステレオ再生)は例えるなら映画や動画のように空間に音像を展開させそれがリアルに映し出せるような方向性にいっているような気がする。それに対してモノラル再生は「活字」である ステレオ再生が映画だとするならその脚本がモノラル再生ではないかと思う。
同じ物語でも表現方法が映像と活字で違うだけで内容は同一なのである。映像は一目でわかり より具体的であるのに対し活字での表現はそれを読む人の解釈の仕方等で捉え方が大きく変わってくる それだけに読み手の想像の幅も広くなる。

レコードで専用モノラル針を使いオリジナルを初めて聴いたときステレオ再生やCDなどと違い勢いと音の厚み、激しさに驚いた記憶がある。結局それからレコードそしてオリジナル等に嵌り ジャズのモノラル盤を聴きまくったが再生は上手く出来なかった。その再生はジャズの勢い、迫力がいかに表現できるか 当時のジャズの熱さが伝わるか等が自分のオーディオにおける指針でもあった ジャズオーディオをやる人はBGM的に聴く場合を除いて皆その辺りを求めているのだと思う。自分も狭い環境で小型のスピーカーであってもその熱気を伝わるようなオーディオは潜在的に意識はしていたようだ

音楽という物語を音で聴き それを映像化する現在のオーディオに対して昔のモノラル時代のオーディオというのは音で聴き活字として捉えていたのではないかと想像する。モノラル時代に映像や映画はもちろんあったがリアルではないのはハッキリ分かっていた 映像技術がまだ活字で捉えるのと変わらないぐらい劣っていたからである
今は立体化、3Dやホログラフィやら現実と架空の世界が入り乱れて区切りが無くなってきているように思う。

モノラル録音再生をオーディオのベテランでもつまらないと思っている人は多い 音場が狭いとか勢いはあるが単調だとか音の広がりがないとか…の理由からである。映像化を目指しているステレオ再生と比べると確かに色彩感もモノクロだし狭い範囲の音場しかないが映像ではなく書物と捉えれば これは中々いける。
今まで自分もモノラル再生をステレオと同等の「映像化」での再生を試みていた その為ベストな状態というのは当時の機器類など用いてやるのがステレオ再生に負けない?表現で出来ると思っていたが根本的に間違えていたようだ。モノラル再生は活字である 活字の大きさは見えればよい 太い字でも大きい字でなくても要はその内容が楽しめるかどうかなのである。

ひとつ断わっておくがステレオ再生を否定しているわけではない。音を映像化する方向性は間違えてはいないしそのやり方工夫で大いに感動を得られると思っている。
オーディオに於ける過去の幻影の再生にマイ電柱を立て、専用電源、専用部屋を構築し、云百万円の機器類を揃えてまで自分はやれない というだけである。

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普及帯価格の安いプレーヤーにこれまた安いカートリッジで聴くモノラル(オリジナルだけど…)  上質の小説を読んでいるかのように楽しくなる。



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by kurama66644 | 2018-06-17 10:41 | オーディオ | Comments(2)

なんちゃってモノラル再生を試してみる

ミンガスやアービンを急に聴きたくなったが彼らのアクの強い音楽はモノラル再生のほうが自分的には好みである。
現在モノラル再生は挫折して2台のプレーヤーもステレオカートリッジを装着 モノラルレコードも殆ど買わなくなり(レコード自体買わなくなった)人にあげるか売却し減ってきている。モノラルレコードの時代は今から半世紀前の事でその時代のプレーヤーなり機器類で再生するのがベストであると思っていたが機器自体はデカいしビンテージは超高価になって簡単には手に入らない 調整も中々難しいなど物理的(金銭的)な事も踏まえ諦めてしまったがモノラルカートリッジだけはまだいくつか持っている。

アマトールを導入しだした頃からモノラル再生はほぼ止めてしまったのでこのスピーカーではモノラル再生はほぼ試していない状態である アマトールのボワボワした締まりのない低音が意外とモノラル再生には合っているのではないかと想像し 装着簡単なケンウッドのKP-990に疑似モノラル針のオーテクAT33MONOを付けてなんちゃってモノラル再生を行ってみた。
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アクの強さは少し薄らぐがまずまずの調子で鳴ってくれる 使っているアンプがQUADでスピーカーがソナス、プレーヤーとカートリッジが日本製のものと国内外混合でかなり適当な感じがしないでもない(-_-;) いずれにしても余り高級感のある音ではない(笑) そもそもミンガスやアービンが高級なオーディオ装置から鳴る姿は余り想像したくない…それにしてもモノラル感は余り感じられない カートリッジが疑似モノラルというのもあると思うがステレオ再生を前提としている装置群だからそうなっちゃのかもしれないなぁ。やはり本当のモノラル再生はお金と部屋に余裕のある人でないと出来ないのであろう オリジナルモノラル盤は機器類と変わらないぐらい高価だし あのまま突き進んでいたら破産していたと思う 辞めて助かった。

性格にもよると思うが執着すると周りが見えなくなってくる。ある記事でスピーカーに10万かける(出す)人はいないと書かれていた 書いた方はもちろんオーディオマニアではない普通の?音楽好きな方である 今から11年前初めてオーディオ機器と言われるスピーカーを購入したが その価格は25万円だった それまでの自分を考えるとスピーカーに25万?など考えた事も無かった スピーカーの価値もよく分かっていなかったこともあるがオーディオ機器にお金を出してもせいぜい5万位が限度だと思っていた。
そこからタガが外れてしまったようにも思う その後も「これがこんな値段?」と分かっても購入することがあったし分かっていても周りの雰囲気に流されていた感じではあった。アナログレコードも似た感じで中古品の昔のものは捨て値で売買されていると思っていたがそうでないものも沢山存在していたそれに嵌ると周りが見えなくなり意思の弱いものは流されていく。

オーディオ業界は売らんが為に高級路線にまっしぐら 更には付加価値と称して高級アクセサリーはたまた部屋の音響が一番大事、電源が大切と吹聴して機材よりさらには高い買い物を促進する。自分のように意思の弱い流されやすいタイプは要注意である「音楽を聴くのに大げさな装置や部屋はいらない」という事が10年かけてようやくわかりかけてきたところである。そういう思いでなんちゃってモノラル再生を試している自分がいる。

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ニュージーランド産のJAZZりんご 国産にはない味わいである。

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by kurama66644 | 2018-06-15 13:32 | オーディオ | Comments(2)

日付のある表現

先般 ご近所オフ会で昭和歌謡曲大会をやった時 自分もそうだが同席されたSさんもオフ会相手のIさんも 曲に対してこれは何年の曲かというのがすんなりと出てきた。

そういわれるとジャズに関しても録音年月日を結構気にしている ジャズ好きな人と話しても「これ何年の録音?」という話になってしまう…

今から約40年前 とある雑誌で音楽家の武満徹さんと演出家の寺山修司さんの対話でこの日付のある表現について話されていた。
寺山さんは「一つ一つの曲が聴き手の記憶と慣れあって世界を作り出していく」と述べている。更に「歌とかジャズの魅力は日付を絶対なくさないことにこだわるべきである 短歌なんていうのは日付なしでは成立しない 自由詩っていうのは日付がなくなって 大半の詩はそうなり 詩は歌ではなくなってしまった」 それに対して武満さんも「日付のある音楽を書きたいと思っている」と呼応している。

音楽は物語を読むが如く感じ取る必要があると思っている 生演奏を聴く以外は殆どが過去のものを聴いている その過去のものを聴く場合 奏者だけではなく自分のその時の行動や出来事もオーバーラップして物語を感じてしまうものである 同じ曲を聴くのでもその時幸福の絶頂にいた場合とその逆に不幸のどん底にいた時では感じ方が違う筈である その区別をつけるのが日付の表現であり ひとつの関係の因果律であると思う。

音楽を聴く時 そのソフトや用いる機器、部屋などの環境を考えてマニアは試行錯誤しているが時(とき)は気にしない。 録音されたものは全て過去のものである 当たり前の話だが過去のものは今、この場には存在しない 幻のようなものである。幻を生演奏のようにとかリアルに再現とか所詮無理な事であるのに時間とお金をかけて試みる…

過去のものを再生、再現する時 再生するそのもの(ソフトの中身、内容)を聴いてただ感じるだけではなくその録音されたその時代(年月日 時間)に人それぞれが時代の出来事、自身の体験、空気等感じ取る 自分の生まれる前の音源であっても知識としてその時代を想像として感じ取ったりもする。

オーディオは出た音がすべて!と語るオーディオファンも多い ただしこの日付の表現を意識する人はどれだけいるだろうか? 出てきた音がきれい、汚い、澄んでいる、濁っている等々現時点の評価だけで済ましている人が殆どであると思う。環境が良かったり機器類が高価であればそれは良い音?は出るだろう オフ会をあまりやらなくなったのは音楽の物語を語れる人が殆どいないと気付いたからである 物語といっても音楽ジャンルに特段詳しくなくても知識が豊富でなくてもいいと思う その人の生き方、生きざまが感じ取れるようならそれで十分である 日付の表現を意識し過去の録音物をリスペクトした自己の経験も含めた物語を語れる人のオーディオシステムはこれからも聴いてみたいと思っている。(※実際にそういう方は少ないように思うが…)

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ジャズは50~60年代が圧倒的に良いものが(好みのもの)が多い、そして歌謡曲は70年代がとても好きだ。このところユーチューブなどで70年代、80年代の歌謡曲を再確認しつつ聴いている 90年以降も聴いてみたが確かにヒット曲などはあり大衆に受け入られた名曲もあるが70年代のものにはかなわない ものすごく差があるように感じた(個人的にである) その差とは何かといわれると切なさとさびしさの違いかと思う…切なさは心が感情でいっぱいの状態で少し圧迫感がある感じ、さびしさは心に穴が開いているような空虚感…90年以降は表面的には華やいだ感のものもあるがさびしい感覚に思える それが現在進行形中である。
写真の「マイピュアレディ」は77年作品 切なさを歌った名曲である。

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by kurama66644 | 2018-06-10 09:20 | Comments(2)

名も知らぬピアニスト

レコードを買わなくなったがCDは時々買う 横着してアマゾンなどで単品買いするがやはり店頭で実物を見て買うのがシックリくる 何よりもこんな小さなものをわざわざ大掛かりな梱包で宅配の方に持ってきてもらうのは申し訳ない気がしている 僻地でお店がないとか自分自身 体が動かないというわけではないのに…更には送料が無料というのはどこかにしわ寄せがいっているはず 久しぶりにお店の様子を見に御茶ノ水のユニオンに行ってきた。

配信ダウンロード、ストリーミングが流行りの中 店頭には結構人が多かった 形あるCDやレコードは日本ではまだまだ需要がありそうだ しかし売り上げ的には右肩下がり一部のマニアや愛好家が欲しているだけなのかもしれない…
いつもの癖でまずはレコード棚を覗く 壁にある7~8万のレコードは殆ど見向きもされない様子 それに混じり6~8千円程度の盤も飾ってあった。以前のキタサンなら6~8千円で盤質が良ければゲットしていたがもう食指が動かない 感覚的にソフトでこの価格自体「高価」と感じ ようやく普通の感覚に戻りつつあると思いながらCD棚を覗く ユニオンさんも昔の米国ジャズだけではなく現代のヨーロッパ、南米、中近東と面白そうなジャズのアーティストを探し 販促していると感心するがどうもピーンと来るものがない それでも2枚ほど購入してきた。

1枚目はオランダ出身ヴォーカリスト シスビー・フォスの2012年作「UNDER YOUR SPELL」
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とても自然な歌声で冒頭のShanbhai Bluesのアレンジの面白さ、2曲目のUnder Your Spell こちらもオリジナルだがストリングスと相まってとても美しい、リンダ・ロンシュタットのストリングス3部作をややポップス調にした感じで好ましい。税込みで3000円を超すが下手なアナログより価格的にもこちらの方がいい。


2枚目はスティープル・チェイス盤のリマスター版 62,64年録音の「CRY ME A RIVER」
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ご存じ渡欧したデクスター・ゴードンのライブレコーディングである ブルーノート等で聴きつくした感があるデクスターであるが個人的にクライ・ミー・リバーを吹くデクスターに惹かれて購入。ライナーノーツを眺めていると知らないピアニストの名が…アトリ・ビョルン?  どうやら地元(デンマーク)のピアニストのようである。
地元では有名らしいがこの時代のヨーロッパジャズはまだまだアメリカを追っかけていた感があるので対外的にも殆ど知られていない 無名の存在である。
デクスターのサックスは相変わらずだがこちらは何とも言えない哀愁をもったピアノである。微妙なスイング感の中に愁いをもったトーン アメリカ人じゃ出ない音色 と彼の弾くピアノにしばし心を奪われてしまった。

デクスターもそうだが渡欧したケニー・ドリューなんかも徐々にだがジャズではなくヨーロッパの「音楽」に変貌しつつあったように思う。アメリカ本土でもヨーロッパ音楽の影響を受けアドリブすら定型化してしまった節があるのでましてやヨーロッパの大地に触れた時からはその勢いは加速していったように思う。

会場で実際生演奏を聴くのとは違い 自宅でその熱気や汗を感じないオーディオ装置を介して聴くにはこの「音楽」と化したジャズを聴くにはちょうど良いのかもしれないなぁとこの無名ピアニスト「アトリ・ビョルン」を聴いて感じてしまった。そうオーディオではジャズは体感出来ないと改めて感じている今日この頃である。

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by kurama66644 | 2018-06-06 10:18 | ジャズ | Comments(0)

アッコルドとアマトール

特にソナス・ファベールのスピーカーを好きというわけでもない 作者のフランコ・セルブリンのスピーカー製作に対する意気込みに惹かれただけである。

そうして手に入れた「Minima」と「アマトール」特にアマトールはフランコの処女作でもあり本革を使ったフロントバッフル、寄木集めのエンクロージャーというソナススピーカーの原型を作った作品でもあるので感慨深いものがある。

アマトールはラテン語で「選び抜かれた友人」とあるが友人になれるかどうか導入して3か月経つが分からない(笑) 造られて30年経つので現代スピーカーに比べ性能的には劣っている部分もあるかとは思うが発売時の評判は大変良かったそうである しかしながら作者のスピーカー作りに対する情熱が時として音楽再生にじゃまになる場合もあると感じている すなわちジャンルにもよるが感情を豊かに表現しないような音源、音楽はとてもバランスが悪く聴こえてしまう アマトールを利己的なスピーカーと以前書いたがスピーカーが音源を選んでしまうというのはとても珍しくスピーカーに合ったものはとてつもなく素晴らしい再生をもたらすが そうでないものはこちらの意図しないおかしな再生をしてしまう傾向にある…
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アマトールと右端に置いてあるのがMinima(訂正:スタンドに置いてあるのがminima、右端がアマトールです)

現時点に於いてこのスピーカーに翻弄されているというのが正直なところである。ただし使いこなそうとか無理やり型にはめる気は無くしばらくは様子見である 再生する音楽はジャズや歌謡曲が多い ジャズはアタック感が信条であるとよく言われるがこのアマトールにはアタック感は少ない(;'∀') それを補うドロドロした情熱が再現できるので結構聴ける それは歌謡曲(昭和歌謡)でも同じことが言える。そうそう昭和歌謡といえば先週ご近所のオーディオファイルIさんと相互オフ会をした オフ会自体はもう余りやらなくなったがテーマが「昭和歌謡再生」である事とIさんはアッコルドを所有しているのでそれにも惹かれた。

アッコルドはフランコ・セルブリンの遺作でアマトールとは形からも違うが音色はフランコの匂いが感じられた。音色に匂いというのもおかしな話であるがなんとなくそう感じてしまった(笑) おそらくこの処女作品と遺作を同時に聴き比べできる機会はそうそうない筈でありお互い家が近くであるのも珍しいと思う 再生するのがクラッシックではなく「昭和歌謡」なのでフランコ・セルブリンも草葉の陰で泣いているだろうなぁ~(-_-;)
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Iさん宅のアッコルド キタサンの写真の撮り方が悪くよく写っていないが流麗な外観でとても美しいスピーカーである。

アッコルドは2012年発売の新しいスピーカーで「調和」という意味である その名の通り宙を浮かぶ音色が心地よくバランスよく鳴る優秀なスピーカーである。
フランコ・セルブリンが最後に残したかった音の集大成がこういう音というのなら なるほど納得できる。アマトールが若者の血気盛んなほとばしる音に対してアッコルドは達観した静かながら芯のある音かと思う。アマトールもそうだがそれはその時代に求められていた音でもあるように思うし時代を反映しているようにも感じる。

音を聴くのも楽しいが観る価値のあるスピーカーの存在も趣味としての醍醐味があるようにも思う。

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by kurama66644 | 2018-06-02 09:41 | オーディオ | Comments(2)

歌謡曲とジャズは好きです!


by キタサン
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