カテゴリ:未分類( 102 )

貧乏列伝

先日ユーチューブを見ていたらモデルで俳優の風間トオルさんの貧乏時代の壮絶な?体験を知る事が出来た。
テレビ放映なので多少の演出もあるだろうが個人的には結構信じられる体験でもあった  周りのタレントは驚愕の面持ちで信じられないというリアクションだったが中流家庭以上の出身者が多いので信じられないのは当然だと思った。

カマキリの足の固い部分を食べていたとか(笑) 時計が無かったので太陽と月の位置で時間が分かったとか風呂に行くお金が無かったので洗濯機に入り衣類と体を洗っていたとか病院に行くお金が無いので唾とガムテープでけがをしても全て治せたとかエピソードが次々と出てくる…苦労と言うか生きるためにいかに体が順応していくかというのはよく分かり改めて人間の体のタフさに感心する。

子供の頃3秒ルールというものがあり床や地面に落ちても3秒以内だと安全だという摩訶不思議なルールであったが 思い出してみるとそういった食べ物を食してもおなかは壊さなかったし病気にもならなかった。意地汚いとか品の問題もあるが生きていくのに仕方がない事もある 食べ物だけではなくあらゆるものが抗菌グッズと化して売られているのは人が持つ耐性をドンドンなくし却って今まで発生しなかった病気の原因にもなっているようにも思う。その最たるものが「水」で今の子供たちは水筒を持って学校にいくようだが水道局に勤めている友人からいわせると今の水道はものすごく安全に浄化されており安心して飲めると言っても学校側の決まり?とかいって聞く耳をもたないようだ 親自身がペットボトル世代であるから仕方がないのかもしれない。

子供はドロ弄りが好きで自分も小さな時 ドロをこねくり回してドロ団子を作ったりして遊んでいた 自分でいうのもなんだがかなり精巧に?美味しそうに作ったものだからそれを食べようと思った友達もいた(-_-;) さすがに戦争時代じゃないんだからそんな事ありえんだろうと思われるかもしれないが自分も含めて貧乏な奴は周りにもたくさんいた。そいつの家は本当に貧しくていつも腹を空かしていたので本気で食べようとしていたのだと思う 子供心に悲しくなり家に連れっていっても自分の家にもロクなものがないので山に行き実っている果物をそいつと食べた記憶がある  もちろんかなり怪しい果物だったがおなかなど壊さなかった。風間さんがカマキリや草を食べていたという事に驚く人も多いようだがコンビニで当たり前のように食料が並んでいる現在では仕方がないことなのかもしれない。

以前勤めていた会社で銀座から離れて3年間ぐらい隅田川の川沿いの物流倉庫(物流部)で働いていたことがある。銀座の華やかな街並みと違い殺風景な場所であったが隅田川沿いにはブルーシートやテントが沢山あった そう浮浪者の方が多かったのだ 今はどうなっているのか分からないが隅田川沿い以外にも公園などに浮浪者はいた。仕事の昼休みに公園で小休止する事が多く そこで浮浪者の方と色々話す機会があった こちらも作業着で汚い恰好をしていたせいか浮浪者と雰囲気が似ていたのかよく分からないが私生活?の状況なども聞くことがあり 大抵大きな汚れたバックを持って移動している。「中身見ていい?」と聞くとナベやら釜やら外着など色々入っていた それとコンビニなどの廃棄品もあった いわゆる賞味期限切れのものだがまだまだ普通に食べられる品である 立派な上着なんかも入っており こんなのいつ着るのか?なんて思っていると 何かあったときに売るんだよ と答えてくれたが買ってくれる人がいるのだろうか? 
浮浪者の間でも縄張り争いがありそれぞれの陣地のようなものがあるらしいことを聞いた 意外と浮浪者間でのネットワーク網のようなものがありだれそれが死んだとか警察に保護されたとか ここを引き上げて別の所に移動したとか彼らの耳にそういう情報が入ってくるようである。それはダイレクトに自分の生活に関係してくることなので重要なのであろう それぞれ世界があるようだ。

それから再び銀座の会社に戻って会社が無くなるまで銀座で過ごしたが華やいだ銀座の裏の部分、闇の部分も長くいると分かってきた 高級品や高級ブランドが眩い光をもって通り過ぎる人々の目を惑わす すべてとは言わないがそういうものは何らかの犠牲や蹴落とされた人々の屍の中 出来上がり存在する。先ほど眩しい光を放っているといったがそのほとんどが怪しい光である 偏見と思われても仕方がないがハイエンドオーディオ製品も似た雰囲気に思えて仕方がない 銀座で高級品をいつも見つめていた25年 その結果というかお金があってもハイエンドには手を付けたくないし持ちたくないと思っている。

もっともハイエンドという基準自体があやふやで人それぞれの金銭感覚にもよる 自分が持っているQUADの昔のアンプを「これ安いけど良いアンプ」と褒めてくれた人がいた。 自分にとっては安いとは微塵も思わない、6~7万位の中古で購入したが安いと思うその人の感覚と自分の感覚は大きく異なっていると思っている。

風間トオルの貧乏列伝に驚く人は普通にオーディオの世界にも入れるんだろうなぁと漠然と思った そして驚かない自分は現在のオーディオの世界にいることの違和感を覚えざるえない。 それでも細々と続けてはいる 今後業界やこの世界がどう変化するのか もうしばらく様子見である。
b0323858_09421740.jpg

[PR]
by kurama66644 | 2018-10-08 09:59 | Comments(2)

反体制の音楽

何やら大げさなタイトルだが今時反体制を意識して音楽を聴く人もいないと思う…ジャズやロックにそういう印象を持ってしまう自分はかなり古い人間なのかもしれない。

権力に対するレジスタンスとしては日本のフォークもかつてはそうであり歌謡曲の中にも時代を風刺し皮肉ったものも多かった。ロックなどは時代背景からまだ戦争の影響が大きかったように思う 資本主義と社会主義が対立しどちらの施策に対しても一定数の反抗分子は存在する それを増長させる手段としてロックと言う音楽は有効だったのかもしれない。ベースには貧困があり一部の富んだ者だけが裕福に贅沢をする姿はとてもハッキリしていた  その不条理さとやるせなさが若者のエネルギーと合致し反体制の動機づけとして大衆にも受け入れられたのだと思う。
ジャズの場合も反体制の姿勢は見られるがその根本は貧困だけではなく人種や肌の色といった差別によるその反抗と考える 生まれ持ったどうにもならない要素でもあり あきらめとして内包せざる負えない、そうした内なる叫び、心の叫びが「ブルース」でありジャズの根幹を支えている  ゆえにロックの直接的な叫びとジャズの内包した叫びでは反抗の表現は違っているように思う。

音楽は昔から政治宗教に利用されてきた歴史もある 前述したジャズやロックだけではなくクラシックなんかは階層(階級)の音楽であからさまな差別 立ち位置があった。
私の知り合いで音楽嫌いの人がいるがメロディーだけではなく歌詞、歌い手、演奏者の思想がメッセージ性が高く扇動する危険性があると言い 音楽は苦手で聴かないと今では珍しい存在である。

音楽は嫌いで聴かないと言っても今では街中の至るところで音楽は鳴っているしテレビはもとよりネット等で無料の配信?もあり受信機(携帯端末も含む)の小型化で持ち運びも出来る世の中になってしまった。先ほどの知り合いに「聴かないってどうやっているの?」と尋ねると 実際の演奏(生での演奏)はまず行かないという事らしい あとテレビやネット等でも意識的に聴かないようにしているという事だ 実際の演奏それは立派なホールでのコンサートばかりではなく市民活動のアマチュアの演奏や街中の生演奏など人がダイレクトに訴えて(歌う、演奏するなど)いるのは 機械を通して聴くのとはまるっきり違い恐ろしい感じがするとの事(;'∀') 失礼ながらちょっと病的な感じがしないでもないがただ言わんとしている事は何となく分かる気もする 人が発するものは単純に音(声)だけではなく気のような(オカルトっぽいが…)思い、念のようなものも存在する 生演奏の場合それを直接受け止めてしまうが機械を通すとその念のようなものは分からなくなってしまう。キタサンがこのブログで時々書いているオーディオでは「ジャズという音楽」は聴けるが「ジャズ」は聴けないというのに近いものがあるように思う。 人生の中の体験で聴く感度は違ってくる それからするとオーディオ機器の違い等は大したことはないように感じる。

歌謡曲は比較的好きであるが60年代とそれ以降70年代では全く捉え方が違っている これはあくまでも自分個人の体験からの話であるが炭鉱の町で生まれ育った子供時分親戚はもとより同級生の親は炭鉱夫が多かった 1番方~3番方と今でいう一日のローテーションがあり 親戚や知り合いの親父さんたちを見送る前 一緒にテレビの歌謡曲を見る(聴く)事が多かった 「行ってくるわ」と言ってそのまま帰らぬ人となる事は何度もあった その時聴いていた歌謡曲は「死」をイメージし身近で亡くなった人達の鎮魂歌のような感覚でいる 閉山する前ぐらいになると(70年初頭)さすがに落盤事故等は無くなっていたが60年代のその頃の歌謡曲は物悲しいイメージがある。

ジャズに関しても20代の食えない時代に聴いたカセットでのジャズの方が生々しく感じたし50歳手前で職も含めてすべてを無くした時(オーディオ機器はあった(笑))夜勤で一つ20kgはあるコピー用紙の箱を都合2000個 手で所定の場所に移動させる物流のアルバイトをしていた もちろん仕事はこれだけでは終わらない そうして朝方帰宅して手の感触が無くなりつつある中 聴いたジャズは音楽ではなくジャズそのものを自然と意識した感覚であった それでも何とか住む所はあったのでまだマシな方かと思いつつ少しではあるがジャズが身近に感じられたような気がした。


またいつものようにタイトルとは逸脱した内容になってしまったが音楽を自宅で気軽に聴けるなんて平和な世の中である証拠かもしれない。
雨風がしのげる場所がありのんびりオーディオ機器で音楽を聴く 本来持っていた(持っている)反体制とは真逆な状況でロックだジャズだと言っても心地の良いBGMでしかない 他人様の家に聴きに行って過去に2人だけ反骨精神が感じられる音を聴くことが出来た 家もあり装置もある状況では反体制ではないと上述したのと相反するかもしれないが おそらくはその所有者本人の生き方や気のようなものが鳴っている音から感じられたから なのかもしれない。

b0323858_09500924.jpg
「THE BLUES AND THE ABSTRACT TRUTH」 邦題で「ブルースの真実」として発売された半世紀前のアルバム そのジャケットの裏側に飾られた写真
再発されたアルバムやCDなどは この写真が削除されている。当時の新鋭 フレディ・ハバードや白人ピアニストの雄 ビル・エバンス、モダンジャズとフリーの架け橋を結んだエリック・ドルフィー、ビバップ世代のロイ・ヘインズなど新旧ジャズの精鋭をコンダクトしたリーダーのオリバー・ネルソン。
人種差別が顕著だったこの時代 お金のために白人の前で歌う(演奏する)自分は人種とは関係ない人ではなく「ロボット」と化し抵抗していたようにも見える。
本来内に秘めたブルースはあくまでも内面のもので露出するのは商業主義に屈した為のようにも思う その後 西洋音楽の基盤を無視したフリージャズが活発になってくる 内面を露出したブルースがフリージャズとしての表現であり フリージャズの亜流がロックへと進んでいったように個人的には考える。
b0323858_09502153.jpg

[PR]
by kurama66644 | 2018-08-11 10:25 | Comments(0)

銀座の鄙び(ひなび)

休みの日 用事があり東京丸の内に出かけた 所用は早く終わり時間があったので丸の内有楽町、銀座とブラブラ散策した。

前の職場が銀座にあった関係上 この界隈の地理は結構詳しいつもりだ 休日の喧騒を避けるように晴海通りをさけ みゆき通りを築地方面に進んでいった。
銀座は都合25年いたが今から15年位前 ちょうど営業職にあったとき銀座一帯をローラー作戦で飛び込み営業をする事になり1丁目から8丁目まで雑居ビルも含め 2~3か月かけて回ったのは懐かしい思い出である。まだこの当時は今のようにセキュリティーもそれほど厳しくなく中小の企業だと比較的中まで入っていけた。もちろん入り口で門前払いの時の方が多かったのだが…

そんなことを思い出しながら歩いているとなぜか浴衣姿の人が多い 近くで浴衣を着る催し物をやっているらしくそのせいもあったようだ。着物で銀座を歩く姿は昔からそれほど珍しくなかった 逆に銀座だから似合っている風にも当時は思っていた 今回は浴衣で特に若い人が多かったがおしゃれ感覚で着ているのだろう本人は格好いいつもりなのだろうが 余り似合っている風には思えない 要は着慣れていないのだろう 新入社員の紺のスーツ(今は殆ど無いらしいが)を見ている感じがした。

銀座はまだ新宿、池袋、渋谷などと違い大人が多く来る街だ そういう中 今回散策していて外人が多かった 外人は昔から多かったが特に中国人が多かった そして大声でわめきながら?歩いている感じだ こういうことを書くとヘイトスピーチだと言われかねない でも事実は事実として書いておく それが良いとか悪いとかは書かないでおく…。
歩いていて知らない店 新しい店が多い 自分が知っている店が結構無くなっており時の流れを感じてしまう。そういう自分が働いていた会社も長い歴史に終止符を打ち自主廃業してしまったのだから同類相哀れむという感じであろうか…
b0323858_18352329.jpg
銀座松坂屋跡 (みゆき通りから見た風景) 現在は「GINZA SIX」という商業施設に変わっている。 このすぐ先にあった銀座スエヒロの500円昼定食にはよくお世話になった。
田舎から出てきた同期で銀座スエヒロでこんなに安く食事が出来ると感激し友人をこちらに案内したところ(夜にです)昼間と全くメニューが違い 金額が一桁違い慌てた話には大笑いした。

80年代初頭にはコンビニはほとんど見なかったが現在は銀座のいたるところに点在する。あとパチンコ屋とチェーンの居酒屋も増えてきた、カラオケやも見かける。

今回写真には撮らなかったが老舗の店もまだ存在しているが数は減ってきている これが築地方面そして京橋、新富町方面と徒歩圏内で行ける場所に移ると様相はかなり変わってくる。この界隈は意外と庶民的な店も多い 気取らずリラックスできる店も多かったので銀座で働いていた当時はよく飲みにいった(笑)

そう銀座と言うと高級ブランド店があちらこちらにあり庶民の街とは違う「雅」の街のイメージがあるが実は少し裏通りを行くと かなりディープな世界も見える。
ディープな世界と言っても8丁目界隈の高級クラブ 政財界や芸能人ご用達のお店とは又違う庶民が行けるお店も結構ある。
b0323858_18360432.jpg
銀座と東銀座の中間にある「中華三原」はよく昼飯を食った(笑) 今はどうか分からないが昔は混んで中々食べれなかった まだやっていてホッとした。

色々懐かしがって この炎天下の中 小一時間も歩いていたので結局 この2枚しか写真は撮らずじまい(;'∀') もう少し涼しくなってから散策し直しである。

個々の有名ブランド店などを一か所に集中させ集客力を増やす商業施設を構え一見豪華になったような銀座 個人的には見せかけだけの「雅」が増え 実態は「鄙び」になったような気がする。


[PR]
by kurama66644 | 2018-08-06 09:57 | Comments(2)

つながり

先日 会社内で一部のシステムがダウンし自分の所属する部署でも被害を受けてしまった 半日ぐらい業務が出来ず滞っていたが別の仕事が出来てかえって好都合でもあった(;'∀') 結果的には良かった気がしないでもないのだが… 原因は営業マンの一人が入力した一つの文字でシステムが反応しなくなったらしいことが分かった キタサンはこの手の事には疎いが たった一文字の違いでシステム障害を起こす事は けして珍しくないようだ もちろん色々な想定をして人は常に間違える性悪説を前提にシステム構築しバックアップを常に取るように推奨している事は当然だが 起きるときは起きてしまうものである。

「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺があるが一見なんでもない行為が全く違う所にまで影響を与える昔のたとえである こうした諺が昔からある事からしても世の中全ての事がつながっていると思わずにはいられない。冒頭に書いたシステム障害も営業マン自身もまさかこんな些細な事でこのような事が起きるとは思ってもみなかったと思う 実際 自分の部署以外に委託していた関連会社にも影響がありその関連会社も含めた他のステークホルダーにも影響が生じてしまったはずである。その影響の結果良かったのか悪かったのかはその時の状況にもよるが動きや流れに変化があったのは確かであろう。

ちょっと話は横に逸れるが西洋医学は直接的、東洋医学は間接的という印象を持っている。患部を直接弄り治癒する西洋医学に対し 全く痛みと関係ない箇所を指圧したりもみほぐしたりし間接的な治療をする東洋医学、ツボというのは神経や血管がつながっているのを前提にその効用があるときく 肩が凝っている時 直接肩ではなく手のひらや足のツボを押すと和らぐのも体がつながっている証拠であると思う。

「音が変わった」「激変した!」このワードはキタサンの参加しているオーディオコミュでも毎日のように聞く。
正直言って半信半疑の時もあるが最近は本当なんだろうなぁ~と思えてきた もちろん本人にとってはである。他人が聴くと変化は分からないかもしれないが本人が言っているので間違いはない それでいいのだと思う。ただしその変化を起こした原因が自分が考えていた事以外で起きたことも考えられると思う 高価なアクセサリーを購入して今までと確かに変わったと言い切っても100%それを使用したからとは限らないし 所謂副作用が知らないうちに発生しているかもしれないので過信しない方が良さそうである。
そういうつながりを前提とするとオーディオの場合は電気的なつながりと物と物との接点で発生する物理的つながりに分かれる、電気的なつながりは数値で挙げる事も可能なので可視化出来るが物理的つながりは難しい(特に振動系)。なにせ機械内部だけではなく空間があらゆるものと接しているのでどういう風に影響を与えるのかは完全に解明するのは困難である。難しいのは日々動いてしまうから条件が微妙に変わる 条件が変わるのは物だけではなく人間そのものもそうである。細胞が死んで新しい細胞が生まれると昨日の私と今日の私では違ってくる…そういうことを考えていくうちに「音が変わる」のは当たり前でそれをどうにかしようとする事自体 空しくなってくる。

スピーカー単独では音はしない アンプ、プレーヤーも然りで電気がないと音すら出ない 更には部屋(土台、置き場所、広義な意味で場所)がないと聴くことができない 空気もないといけない(笑) 音が発生するためには色々なものが相互作用 (つながっていないと) しないとダメで刻一刻と「音は変化していっている」それを素直に受け入れ音楽を聴くのが良いような気がしてならない   そうして音自体拘らなくなるのが精神的にも安定するように思う。それは別段難しい事ではない 普通に?生活している大半の人はそれほど気にしない 自分もかつてはそうであった オーディオの世界に入ってから気にするようになった 今では半年に1度ぐらいしか聴きに行かなくなった生演奏でも音の事を気にする瞬間がある(オーディオの音と対比する) それは知らず知らずのうちにストレスに結び付く。

自分だけの力ではどうにもできない あらゆるものはつながって存在している。つながりを無視するような強引なやり方をして仮に一瞬理想どうりになっても直ぐに変わってしまう それと何もしなくても音は変わっていく 人はそれに気づかないだけである。何故なら人そのものが変わっていくから…それならば日々変わっていく姿を当然として受け入れてみよう

b0323858_07270697.jpg
ジャズよりもオフコースをこの当時 好きで聴いていた。オフコースは当時トレンドでもあり知っている事は女の子にもモテるという不純な動機からであった(-_-;)
当時聴いていた実際の演奏とこのレコードでは感触が違うが30年以上経って聴くこのアルバムは何とも感慨深いものがある。


[PR]
by kurama66644 | 2018-08-04 07:39 | Comments(0)

カステーラ

カステラではなく「カステーラ」なのである。長崎で食べたカステラも美味しかったが北海道出身者は間違いなく?カステーラを好むはず!

断定的に書いてしまったが先日スーパーで北海道展をやっており懐かしい食べ物を見つけ思わず買ってしまった。それがこちら
b0323858_10123854.jpg
島川製菓のミルクカステーラ(5本入り)
何とも懐かしい食べ物である 東京の方ではよく北海道物産展が行われ盛況のようだが このようなマイナーなジャンクフードは余り見かけない。
実はこの5本入りというのは初めて見たような気がする 子供の頃よく売られていたのは1本売りのもので おやつの定番でもあった。食べると口の中が乾いて水が欲しくなる 実際飲むのはファンタオレンジやグレープ あるいはガラナであった※牛乳も定番なのだがキタサンは牛乳が苦手であった…。関東方面はコーラーが馴染みだろうが北海道ではガラナが多い なかにはカツゲンを飲む人もいたが自分は圧倒的にファンタが多かった(時々サイダーも飲んだ記憶がある)ガラナとかカツゲンと言っても北海道人以外はおそらく「?」という感じであろう それなりの歴史もあり語ると長くなるのでここは割愛する(笑)

そのミルクカステーラはもちろん北海道産の小麦を使っている 非常に素朴な味がしミルクカステーラとは言え甘さは抑えている それとカステラというとお茶うけの上品なお菓子のイメージもあるが北海道のカステーラはビニールの袋を破りむしって食べるのが普通である(本当かな?)チョコレートや飴などと同等のお菓子感覚の位置づけであるように思う。

子供時代 食べていた物は大人になった今でも影響が大きい 意外と口に入れた触感で好みが分かれる事も多い このカステーラはパサパサしているようでもあり しかし弾力がありモフモフしている何とも言えない微妙な触感なのである。今では中々お目にかかれない触感であり 現代の食べ物の傾向からいうと若者には好まれないかもしれない(-_-;)

音楽もそうだがその時代に聴いた(味わった)ものは中々忘れないものであり それを聴き返すとその時代に一挙にタイムスリップする。
ミルクカステーラを食べながら昔の事を思い出していると「まてよ!確か別のカステーラもあったような?」そうミルクカステーラとパッケージも似ている高橋製菓の「ビタミンカステーラ」の存在を思い出した。 はて?自分はどちらのカステーラをおもに食べていたのだろうか…? その時代に味わったものは中々忘れないと書いたばかりなのにいい加減なものである(;'∀')

[PR]
by kurama66644 | 2018-07-11 20:55 | Comments(0)

日付のある表現

先般 ご近所オフ会で昭和歌謡曲大会をやった時 自分もそうだが同席されたSさんもオフ会相手のIさんも 曲に対してこれは何年の曲かというのがすんなりと出てきた。

そういわれるとジャズに関しても録音年月日を結構気にしている ジャズ好きな人と話しても「これ何年の録音?」という話になってしまう…

今から約40年前 とある雑誌で音楽家の武満徹さんと演出家の寺山修司さんの対話でこの日付のある表現について話されていた。
寺山さんは「一つ一つの曲が聴き手の記憶と慣れあって世界を作り出していく」と述べている。更に「歌とかジャズの魅力は日付を絶対なくさないことにこだわるべきである 短歌なんていうのは日付なしでは成立しない 自由詩っていうのは日付がなくなって 大半の詩はそうなり 詩は歌ではなくなってしまった」 それに対して武満さんも「日付のある音楽を書きたいと思っている」と呼応している。

音楽は物語を読むが如く感じ取る必要があると思っている 生演奏を聴く以外は殆どが過去のものを聴いている その過去のものを聴く場合 奏者だけではなく自分のその時の行動や出来事もオーバーラップして物語を感じてしまうものである 同じ曲を聴くのでもその時幸福の絶頂にいた場合とその逆に不幸のどん底にいた時では感じ方が違う筈である その区別をつけるのが日付の表現であり ひとつの関係の因果律であると思う。

音楽を聴く時 そのソフトや用いる機器、部屋などの環境を考えてマニアは試行錯誤しているが時(とき)は気にしない。 録音されたものは全て過去のものである 当たり前の話だが過去のものは今、この場には存在しない 幻のようなものである。幻を生演奏のようにとかリアルに再現とか所詮無理な事であるのに時間とお金をかけて試みる…

過去のものを再生、再現する時 再生するそのもの(ソフトの中身、内容)を聴いてただ感じるだけではなくその録音されたその時代(年月日 時間)に人それぞれが時代の出来事、自身の体験、空気等感じ取る 自分の生まれる前の音源であっても知識としてその時代を想像として感じ取ったりもする。

オーディオは出た音がすべて!と語るオーディオファンも多い ただしこの日付の表現を意識する人はどれだけいるだろうか? 出てきた音がきれい、汚い、澄んでいる、濁っている等々現時点の評価だけで済ましている人が殆どであると思う。環境が良かったり機器類が高価であればそれは良い音?は出るだろう オフ会をあまりやらなくなったのは音楽の物語を語れる人が殆どいないと気付いたからである 物語といっても音楽ジャンルに特段詳しくなくても知識が豊富でなくてもいいと思う その人の生き方、生きざまが感じ取れるようならそれで十分である 日付の表現を意識し過去の録音物をリスペクトした自己の経験も含めた物語を語れる人のオーディオシステムはこれからも聴いてみたいと思っている。(※実際にそういう方は少ないように思うが…)

b0323858_08573262.jpg
ジャズは50~60年代が圧倒的に良いものが(好みのもの)が多い、そして歌謡曲は70年代がとても好きだ。このところユーチューブなどで70年代、80年代の歌謡曲を再確認しつつ聴いている 90年以降も聴いてみたが確かにヒット曲などはあり大衆に受け入られた名曲もあるが70年代のものにはかなわない ものすごく差があるように感じた(個人的にである) その差とは何かといわれると切なさとさびしさの違いかと思う…切なさは心が感情でいっぱいの状態で少し圧迫感がある感じ、さびしさは心に穴が開いているような空虚感…90年以降は表面的には華やいだ感のものもあるがさびしい感覚に思える それが現在進行形中である。
写真の「マイピュアレディ」は77年作品 切なさを歌った名曲である。

[PR]
by kurama66644 | 2018-06-10 09:20 | Comments(2)

時代にそぐわないもの

北海道新幹線(新青森~新函館北斗間)が当初の予想の2倍以上の赤字になる予定…金額は100億円という記事を見かけた。

何年か前 実家に帰ったとき札幌駅で北海道新幹線開通のポスターが至る所に貼られていた。北海道にも新幹線かと青函トンネルが開通してからいつかその日が来ると夢想していた子供の頃を思い出していた。青函トンネルも苦難の道を経てようやく開通した 自分が中学時代 青森が修学旅行先だったが当然トンネルはなく青函連絡船で渡った 時間はかかるがそれはそれでとても印象に残っている。

北海道の鉄道は慢性的な赤字である。広さのわりに人口が少ない、車両だけではなく付帯設備維持に相当コストがかかってしまう 余程乗客数を増やすか運賃を上げなければ採算割れをするのはすぐわかる事である。いかに早く目的地に着くかを考えると内地からは飛行機がベストであるが東北方面ぐらいだとそれも微妙になってくる その他政治的な問題も色々とあるので詳しくは書かないが個人的には従来の特急程度で十分だったような気もする。今更札幌までの工事を中止にできないし工事が完成し札幌まで開通したとしても日本の景気がその時どうなっているのか誰にも分からない 冒頭に書いた赤字も更に増えるかもしれない 問題山積みであるのは確かだ。

新幹線自体昔の車両と違いハイテク技術を駆使し技術的には進化していると思う ただそれが本当に必要なのかどうか場所や費用 そして人が欲しているものなのかよく考えなくてはいけないような気がする。

アナログブームと言っても最近の記事でシュアーがアナログカートリッジから撤退するという事が書かれていた。アナログの需要が増えれば当然カートリッジの利用も増えると思うのだがシュアーはMM型の比較的安い価格帯のものが多い それならば入門者用にも良い筈なのだが周りを見るとMCカートリッジのバカ高いものが大部分を占めている。アナログを再度底上げしたいのなら初めてアナログに触れるような若い人を増やさなければいけないのに 機器より高いカートリッジばかり店頭に置いてあった日には誰も近づきもしない。

デジタル機器があっても最終的な出口であるところのスピーカーはアナログだし アナログプレーヤーといっても今の物は肝心な駆動部分が電子制御でアナログでもなんでもない 第一聴く人自体がアナログの存在であり今の時代はデジタルとアナログが混在している。 オーディオに於いてアナログもデジタルもそれほど意味はなくなっているような気がする 最終的に人が脳や体で判断するのでその途中の伝送手段がアナログであってもデジタルであっても感ずるのはアナログである「人」なのである。

便利なのか不便なのか 早いのか遅いのか 楽なのか苦なのかで判断するとそれぞれ前者に上げたものが有利に立つ  そもそも有利に立つから片方を除外しては世の中の道理は成り立たなくなる 便利な物だけになり不便なものが無くなってしまってもその便利な物の中でまた不便なものがでてくるのである。結局はコインの表裏と同じで両方とも無くなることはない 人が見る位置や角度感じ方で便利になったり不便になったり 楽になったり難しくなったりもする…。

時代にそぐわないものとは人のわがままの成れの果てである。人は元々飽きやすく日々変わっていくものであるが時(時代)はただ単に流れていくだけ 時自体に何も意味はない 人のわがままが時代にそぐわないものを作るにすぎない 結局は自然の流れ、動きに適合したものが残っていくようにも思う。

オーディオ自体 途中でデジタルが入ろうがアナログであろうが最終的には人の体が受け付けないようなもの(反応しがたいもの)は廃れていくように思う。
但し 現代は人そのものが壊れつつある 壊れた状態の人々が受け取る反応なので昔とは違っているような気もする…今後どうなるのだろう?

b0323858_10594374.jpg
定番シュアーM44-7とケンウッドのプレーヤーで再生したが音がかなりきつく感じた…アマトールとは相性が悪いのか?それとも自分の感性が変わってきたのか?

[PR]
by kurama66644 | 2018-05-19 11:14 | Comments(0)

商業と芸術

アマトールを導入してから2ヵ月が経つ とても芸術的な作品(スピーカー)だと感じている。芸術的だから高尚だとか素晴らしいというわけではない(素晴らしいものもあるが…)利己的で独善的なスピーカーだと感ずる。このスピーカーが輸入されたのは88年 当時評論家や購入した人からは日本には今までないスピーカーであり素晴らしいと称賛されることが多かったと聞く。
ただ中にはこのスピーカーのどこが良いのか?と疑問に思う人も少数だがいたようだ この疑問に思った少数派の人の感覚は正しいと思う。

元の音源を正しくきれいにかつ素直に再現するのが本来のスピーカーの役目である。録音製作技術が発展していく中 よりリアルに正しく再現して多くの人がその音楽に感動するのが音響機器を製作する人の正しいあり方であるはず それは今でも変わらない。それをこのスピーカーの製作者フランコ・セルブリンは楽器を想定し自己の考えるスピーカー像を描き心血を注いだ その結集が初代アマトールであると思う。 商業主義を排して測定機に頼らず自分の耳で音を聴き こういう音を出すものが自分の理想と考えて作っていったのだと思う 測定機に頼らず自分の耳で聴き善しとしたものを製品化するのはこの当時のソナスの製品では多い 初代Minimaしかりガルネリ・オマージュ、エクストリーマもそうだ しかし残念ながら視聴者の事を考え音楽をよりよく楽しくするというコンセプトが根底にあるものは芸術品と呼ぶのにふさわしくないと個人的には考える。それは商業製品であり芸術作品ではない 芸術作品は多くからは受け入れがたいと思われる要素が高い それはあくまでも作者の思う作品であり他の人の事は考えていない まさに独善的であり孤高の存在である。

アマトールの第一印象は音色が暗い事だ、そして外観の不格好さであると感じた。今まで使っていたMinimaも作者は同じフランコ・セルブリンだがカラッとした明るい音で元気よく鳴ってくれる、筐体は天然木で質感が柔らかであり小型ながら見た目もスッキリしてバッフル面も本革を使っている。 スピーカー然としていながら部屋に置いても調度品としてもシックリくる キタサンのところは普通に生活する部屋なのでこのMinimaはとても調和しており気に入っている。

ちょっとアマトールを貶し過ぎてしまったが それならばMinimaを使えば済むのではと思われるであろう。ところがそうはいかない…前にも書いたがアマトールを聴いた時から心の中が空っぽになってしまった 音や音楽の事を余り考えなくなってしまったのである 楽しいとか楽しくないとか関係なく部屋の中で空気の波が揺らぐ感覚であり それがアマトールの音であり表現である Minimaだと音楽を意識する そしてオーディオも少しは意識する アマトールはあれほど元の音を追及したアナログオリジナルでもCDの音でも変わらなく聴こえる 実際は違うのだが そんな事はどうでもよくなる。

利己的な作品に虜にされるとそこから抜け出すのは困難である。「部屋のどこかしら音楽が流れてくる」そういう表現をすると普通はスピーカーの存在が無くなり消えるという しかしアマトールはしっかりその存在を部屋の中で誇示している おそらくいつの日かこのスピーカーを自分で壊す日が来るような気がする(手放したり、売るのではなく)その時がキタサンにとってオーディオの終着点かと思う とても怖いスピーカーである…。

b0323858_09241916.jpg
b0323858_09240995.jpg
アマトールとMinima

[PR]
by kurama66644 | 2018-05-03 09:31 | Comments(0)

形のあるもの ないもの

先日ユーチューブでアメリカの7歳から10歳位の子供にソニーのカセットウォークマンを見せ(イヤフォンなしの状態) これは何をする道具か当てる動画をたまたま見た。  ほとんどの子供は何の機械?か分からないでいたが中には音楽を聴く道具なのでは?という子供も少数だがいた そしてヒントとしてその中に入れるカセットテープを見せた カセット自体初めて見るようで益々ウォークマンが何をするものか分からない状況に陥った様子であった。

解答は音楽を聴く道具(機械)であると出題者が話すと 皆 オーックレイジーやらアメージングなど信じられないという言葉を笑いながら発していた(笑)

何が信じられないかというと まずその大きさ 重くて持ち歩きが不便との事… そして音楽の収納量というか時間。音楽を聴くのにカセットだと数十分ぐらいの容量だが今は小さな筐体に何万曲と収納でき マニアックな曲でもなければ無尽蔵に手に入れる事ができる それが今の子達には当たり前になっている。

自分の音楽を聴く原点がラジオでありカセットだったので(レコードは再生装置が無かった) 今はこんなものなのかとちょっと驚いてしまい世代間のギャップを感じてしまった。忘れもしない大学に入りたての頃 友人が画期的な商品ができた!と騒いでいた それが持ち運びできる音楽装置「ウォークマン」である。音楽自体それほど興味はなかったのでなぜ友人が興奮しているのか当時よくわからなかったが音楽を携帯でき いつでも音楽を聴ける状態が可能である事に価値を持っていたのだと思う。
当時80年初頭の頃は確か3万位していた記憶があるが学生が買うのには大金でその友人もその後1年ぐらいしてようやく購入 自慢げに自分に見せてくれた。

確かに持ち運びできるがそれでも体に密着して持ち運ぶ?には不格好だと当時でも思った(笑)  その後カセットとほぼ同じ大きさのウォークマンができカセットからCDへメディアが移行、DATやMDなどメディアの変化もあったが今ではポケットに余裕で入る大きさ、ダウンロードという言葉も古くなりつつストリーミングは当たり前 容量も信じられないぐらい大きくなった…。

いつも思うのだが音楽好きの人は片時も音楽と離れられないのだろうか?外に出るときも歩いている時も聴いていないと気持ちが落ち着かないのだろうか?
便利になり音源が簡単に手に入りHDに大量に保存できるようになった ここに数万曲が入っていますと誇らしげに説明していた人を見たことがあるが その人その中の何曲を一生のうちに聴くことができるのだろうか疑問に思う。持っている数や多さを自慢しているだけにしかどうしても感じられない…。

音楽を沢山聴くほど感性が上がると きくが必ずしもそうではないように思う。音楽はしょせん作り物で自然ではない その作り物ばかり聴いていると感性そのものが偏ってしまいかねないと個人的には思っている。以前 CDを何気に集めてミニコンポでジャズを聴いていたが数は数千枚に膨れ上がり置き場所にも困ったことがある 結局今のところに越すにあたり半分ぐらいを処分、その後はアナログに回帰したこともあり最終的には5枚しか残らなかった 数千枚持っていた時は聴いていて楽しかったが感性が豊かになったなど感じなく ただ流し聴きしていたような気がする もちろん高い機器類ではなかったのでそう聴こえただけなのかもしれない。

収集家の方は集めて所有する事に価値があるので気持ちも分かるがオーディオを知ってからそのソフトの多さでその感性とやらが上質?であるかはまた別の話であると思っている。昔はメディア媒体という形のあるものだったので所有するにはスペースが必要でありその限界は各自分かっていた その形が無くなった現在では無尽蔵に小さなスペースに確保できる 欲望のままただその中に落とし込んでも余計な事も含め抱え込むだけ これは形のあるメディア(CDやレコード)でも同じように思う ただこれは趣味の世界、その人個人個人の生き方の問題でもある。 形のあるものはある種抑制が効く 見て分かるからだ しかし形のないものが多くなった現在 それを抑制するのは難しくなった コンテンツが沢山あります、情報が色々なところから得られます、音楽が気軽に楽に手に入ります…形のないものに対する宣伝が甘い誘惑とともに今 大量に流れている ほどほどが良いように感じている昨今である。

b0323858_12092398.jpg
モノラル再生を挫折したと先般の記事で書いたがこの作品の価値は認めている。たとえステレオ針で再生したとしても優れている事に変わりはない 今、TD-124でステレオ針で再生しているが中途半端なモノラル再生より良くなっていると感ずる。自分にとって大枚1万円で初めて買ったモノラルオリジナル盤である もうソフトでこんな高い物 買うことはないと思う(笑)

[PR]
by kurama66644 | 2018-04-11 12:34 | Comments(2)

空気清浄器

花粉症の季節である。自分の子供の頃 花粉症なんて言葉もなかったが高校時代春先になると目が痛く鼻水が出て止まらない症状になった 周りにはそのような症状の人はいなく熱も特になかったので病院にも行かないでいた。酷い時には鼻水でティッシュが1箱1日で消費するほどであった 田舎が北海道の山奥だったので自然の中の草木のアレルギーだったのではないかと思う 上京して都会の空気を吸うようになり?その症状は無くなった…それでも数年に1回ぐらいの割合で5月頃連休が過ぎ つつじが咲くころになるとくしゃみと鼻水、そして目がかゆくなる時がある。スギ花粉ではなくブタクサ?かつつじに対するアレルギー、花粉症なのかいまだによく分からない。

今住んでいる部屋は日当たりが良くやたら乾燥するので加湿器をつけているが水が悪いせいか臭いが鼻につく 香りのエッセンスを数滴垂らして加湿しているが余り効果が無い 季節も春になり加湿器も必要なくなりつつあるが巷で評判の?空気清浄器とやらを購入してみた。人工的に空気をきれいにするなんて世の中も変わってきたと思いつつ何となくの衝動買いである(-_-;)

買ったのはシャープ製 プラズマクラスター搭載のスタンダード型 加湿器兼空気清浄器もあったが手入れが大変そうだったのでシンプルにこちらのものにした。
b0323858_07394418.jpg
最初は布団部屋に置いて試してみたがちょっとプラスティック臭さがあり部屋の空気は澄んできた感じはしたが こんなものか?という感想。
別に悪い製品ではないし価格からしてもっと高級品もあるが機能的にさほど変わらないようでお得感はあるように思った。空気が綺麗だというインジケーターがあり見た目も悪くないので善しとしよう 静音性もそれほど悪くない結構静かでじゃまにならない それよりも同じくシャープ製の冷蔵庫がもう17,8年経つからそちらの方のモーター音がうるさくてしょうがない(笑) 冷蔵庫が置いてあるところと音楽を聴く部屋がつながっているのでもろに聞こえる… クラッシックを聴かれる方の部屋でエアコンの音がじゃまになるので消して聴く方もおられるみたいだが うちなんかは騒音の塊でそういう方にはとても音楽を聴かせる環境ではないなぁ~ ルームチューニングや機器類の胆がノイズの除去と静音性とやたら騒いでいるが自分はそれほど拘らないのでとても静かな環境だと却って緊張して音楽が入ってこない。

[PR]
by kurama66644 | 2018-04-01 07:44 | Comments(0)

歌謡曲とジャズは好きです!


by キタサン
プロフィールを見る
画像一覧
更新通知を受け取る