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幸せの定義

国民幸福度ランキングなるものがあるらしい? 国連が毎年発表しているランキングで各国国民がどれぐらい幸せを感じているか評価したものを調査する以外にGDP,社会的支援、自由度、腐敗度(笑)なるものを総合して決めるようだ。世界156各国中 日本は58位(昨年54位から4位順位を下げる)との事…

個人的には飲み屋での話題として多少ありかなと思うぐらいだが偉い先生方によると幸福には深い意味があり 不幸だと公衆衛生への脅威となりうる 幸せだと仕事へのパフォーマンスや病気への回復力、寿命にも大いに関与していると話している…

幸福とはそもそも主観的なもので客観できないものではないのか? 何故か胡散臭い  そもそも国連というのも中身は官僚の集まりで頭のいい人の集まりかも知れないが画一的で万能ではない どちらかというと日和見主義的な所が多いと感じる 紛争問題も何かと国連の意思に基づきと考える人も多いが大国主義で常任理事国主体で動かざる負えない 国連総長も絶対的権威はない。そういうお役所的な組織がだした評価?が胡散臭いと思うのは日本の官僚が出す施策などみればすぐわかる事だ まぁそれを発表する時のマスコミの偏向報道も更に輪をかけておかしなものにするのだが…

ところで60年近く生きてきたがこれまで不幸だと思ったことは一度もない。ついてないな、失敗したな、悲しいなど心情的にそう思ったことは何度もあるが「不幸」という感覚は味わったことがない おいおいキタサンはよほど裕福な生活で挫折もないのかよと思った人もいるかもしれないが(いないか(-_-;))どちらかというと世間的には底辺の生活を続けてきたと思う。
先の金融庁の年金における平均老夫婦の資産2000万では足りない云々の話で不安がる人も多いが年金自体「社会保障」ではなく「保険」であるので掛け金が多いほど多く支払われる 代替率も現役時代の給付の50%位 人口動態によってはそれより下回るとも言われている 仕組み自体はそれほど複雑な事では無い(計算方法はちょっと面倒くさいが)若い人も中年も高齢者も何となく分かっているはず 100年安心は制度の方で年金生活が安全ではない。ある一定長生きすれば元はとれるが早死にすれば損をする その早死にした人の分で帳尻を合わせている部分も実際はある  それを政局にしたい野党もその対応にオロオロする与党も老後の生活についてそれほど興味はないのであろう興味がないというより議員さんは資産がそれなりにあるので気にしないという方が正しいのかもしれない。

人は必ず死ぬものだが同時にいつ死ぬか分からない 変な話だが余り死体をみる機会が多くなくなったので「死」をイメージする事が減ってきているように思う。
自分自身「死生観」を意識するようになったのは50歳手前の頃だが20歳後半の頃 取引先の人とお会いし翌日にお礼の電話をしたら事務の女性が電話に出られ「実は○○さん昨夜交通事故で亡くなりました」と涙声で話してくれた どうやら会社の仲間同士で夜 飲み会をしその帰りに車にはねられたらしい とても元気で感じの良い方だった歳も私と変わらない(当時27~8歳位) 人って簡単に死ぬものだとその時強く思った。それから10年後位し当時の職場の近くにいた浮浪者の人達と交流も出来 その人たちの死にも何度も直面した その反面 重篤な病気にかかり余命はそれほどないと宣言された親戚がいるが医者の言葉とは裏腹に元気で生存している(今現在も)

死は生と表裏一体のもので個人的なものである それを平均余命何年でそれまでの老後の資金はどうこうと まるで自分が80歳なり90歳まで生きるものだと確定しあーだこうだと議論すること自体ナンセンスで思い上がりもはなはだしいと思っている。
物をなるべく持たないで出来るだけ手放すという考えも どこかで「死」を意識しているのだと思う オーディオをやるようになり又 物が増えてきたので今はなるべく捨てるようにしている 物を買う行為 集める行為は「生」そのものである もちろん悪い事では無いしキタサンもまだ物は買うだろう。

「生」だけ考え長生きしよう それが幸福である そう考え戦後経済発展をし医療整備、技術革新で便利になり 人は長生きするようになった。そうして殆どの人は「死」を考えなくなった それで皆 幸福になってきたのであろうか?むしろ不幸の方が多くなったきたようにも思える 生だけ考え死が無いようなライフサイクルを考え進めてきたことに不幸があるような気がする。(※自殺や早死にを勧めているわけでは絶対にないので勘違いしないように)

幸せとは自分がそれを口にし思えば幸せであり 自分が不幸だと思えば不幸になるそれだけの事である。

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シカゴへ向かう途中 交通事故で亡くなった天才クリフォード・ブラウン 25歳の若さであったが半世紀以上経った今でもその輝きは失われていない

by kurama66644 | 2019-06-16 11:00 | 雑感 | Comments(2)
Commented by hidyh3 at 2019-06-16 16:58
こんにちは。

たいへん興味深いテーマで、わたし自身「この先の自分の人生は、もうオマケみたいなものだよな」そう思っていますので、明日という時間は来てもそこに自分がいるか否かは判らない、そんな感覚で日々過ごしております。

ラ・ロシュフーコーの箴言に「太陽と死は見続けられない」という有名なものがありますが、生きとし生けるものには必ず「死」というゴールがあるわけで、それがいつなのかを意識するのは杞憂であり徒労だと考えます。

モーツァルトが父親への手紙のなかで「明日、わたしは生きていないかもしれない、そう思いながら毎晩眠りにつきます」と綴ったのは有名ですが、いまのわたしには彼の心情がとてもよく判ります。

だからといって、したいことを今、ここでやってしまおうなどとは全く思いません。そういうことはエネルギーが有り余るヒトのすることで、わたしとは別の世界に生きる人たちです。

とりとめのない文章で失礼いたしました。
Commented by kurama66644 at 2019-06-16 18:12
> hidyh3さん こんばんは

縄文時代の平均寿命が33歳位で江戸、明治、昭和初期でようやく50歳代になりました。
戦後から現在までわずか70年の間にそれが85歳そして100年を生きるですか…人類史上70年余りの短い時間にこれだけ長生きするようになったのは異常な事だと思っています。
いわゆる幸せを求めてそうなったのでしょうが なんだかなぁという感想です。

自分自身いつ死んでもいいなんて達観には程遠いですが老後の生活があと何年でそれまでいくら資産が必要云々、政府の社会保障が国民に優しくない、不親切など今 大変な論議が起こってきそうですが あと何年生きるなんて誰が決めるのでしょうか?誰にもわかりません 生だけ考え死を忘れてしまったような現代人は傲慢そのものです。