商業と芸術
ただ中にはこのスピーカーのどこが良いのか?と疑問に思う人も少数だがいたようだ この疑問に思った少数派の人の感覚は正しいと思う。
元の音源を正しくきれいにかつ素直に再現するのが本来のスピーカーの役目である。録音製作技術が発展していく中 よりリアルに正しく再現して多くの人がその音楽に感動するのが音響機器を製作する人の正しいあり方であるはず それは今でも変わらない。それをこのスピーカーの製作者フランコ・セルブリンは楽器を想定し自己の考えるスピーカー像を描き心血を注いだ その結集が初代アマトールであると思う。 商業主義を排して測定機に頼らず自分の耳で音を聴き こういう音を出すものが自分の理想と考えて作っていったのだと思う 測定機に頼らず自分の耳で聴き善しとしたものを製品化するのはこの当時のソナスの製品では多い 初代Minimaしかりガルネリ・オマージュ、エクストリーマもそうだ しかし残念ながら視聴者の事を考え音楽をよりよく楽しくするというコンセプトが根底にあるものは芸術品と呼ぶのにふさわしくないと個人的には考える。それは商業製品であり芸術作品ではない 芸術作品は多くからは受け入れがたいと思われる要素が高い それはあくまでも作者の思う作品であり他の人の事は考えていない まさに独善的であり孤高の存在である。
アマトールの第一印象は音色が暗い事だ、そして外観の不格好さであると感じた。今まで使っていたMinimaも作者は同じフランコ・セルブリンだがカラッとした明るい音で元気よく鳴ってくれる、筐体は天然木で質感が柔らかであり小型ながら見た目もスッキリしてバッフル面も本革を使っている。 スピーカー然としていながら部屋に置いても調度品としてもシックリくる キタサンのところは普通に生活する部屋なのでこのMinimaはとても調和しており気に入っている。
ちょっとアマトールを貶し過ぎてしまったが それならばMinimaを使えば済むのではと思われるであろう。ところがそうはいかない…前にも書いたがアマトールを聴いた時から心の中が空っぽになってしまった 音や音楽の事を余り考えなくなってしまったのである 楽しいとか楽しくないとか関係なく部屋の中で空気の波が揺らぐ感覚であり それがアマトールの音であり表現である Minimaだと音楽を意識する そしてオーディオも少しは意識する アマトールはあれほど元の音を追及したアナログオリジナルでもCDの音でも変わらなく聴こえる 実際は違うのだが そんな事はどうでもよくなる。
利己的な作品に虜にされるとそこから抜け出すのは困難である。「部屋のどこかしら音楽が流れてくる」そういう表現をすると普通はスピーカーの存在が無くなり消えるという しかしアマトールはしっかりその存在を部屋の中で誇示している おそらくいつの日かこのスピーカーを自分で壊す日が来るような気がする(手放したり、売るのではなく)その時がキタサンにとってオーディオの終着点かと思う とても怖いスピーカーである…。