形のあるもの ないもの
解答は音楽を聴く道具(機械)であると出題者が話すと 皆 オーックレイジーやらアメージングなど信じられないという言葉を笑いながら発していた(笑)
何が信じられないかというと まずその大きさ 重くて持ち歩きが不便との事… そして音楽の収納量というか時間。音楽を聴くのにカセットだと数十分ぐらいの容量だが今は小さな筐体に何万曲と収納でき マニアックな曲でもなければ無尽蔵に手に入れる事ができる それが今の子達には当たり前になっている。
自分の音楽を聴く原点がラジオでありカセットだったので(レコードは再生装置が無かった) 今はこんなものなのかとちょっと驚いてしまい世代間のギャップを感じてしまった。忘れもしない大学に入りたての頃 友人が画期的な商品ができた!と騒いでいた それが持ち運びできる音楽装置「ウォークマン」である。音楽自体それほど興味はなかったのでなぜ友人が興奮しているのか当時よくわからなかったが音楽を携帯でき いつでも音楽を聴ける状態が可能である事に価値を持っていたのだと思う。
当時80年初頭の頃は確か3万位していた記憶があるが学生が買うのには大金でその友人もその後1年ぐらいしてようやく購入 自慢げに自分に見せてくれた。
確かに持ち運びできるがそれでも体に密着して持ち運ぶ?には不格好だと当時でも思った(笑) その後カセットとほぼ同じ大きさのウォークマンができカセットからCDへメディアが移行、DATやMDなどメディアの変化もあったが今ではポケットに余裕で入る大きさ、ダウンロードという言葉も古くなりつつストリーミングは当たり前 容量も信じられないぐらい大きくなった…。
いつも思うのだが音楽好きの人は片時も音楽と離れられないのだろうか?外に出るときも歩いている時も聴いていないと気持ちが落ち着かないのだろうか?
便利になり音源が簡単に手に入りHDに大量に保存できるようになった ここに数万曲が入っていますと誇らしげに説明していた人を見たことがあるが その人その中の何曲を一生のうちに聴くことができるのだろうか疑問に思う。持っている数や多さを自慢しているだけにしかどうしても感じられない…。
音楽を沢山聴くほど感性が上がると きくが必ずしもそうではないように思う。音楽はしょせん作り物で自然ではない その作り物ばかり聴いていると感性そのものが偏ってしまいかねないと個人的には思っている。以前 CDを何気に集めてミニコンポでジャズを聴いていたが数は数千枚に膨れ上がり置き場所にも困ったことがある 結局今のところに越すにあたり半分ぐらいを処分、その後はアナログに回帰したこともあり最終的には5枚しか残らなかった 数千枚持っていた時は聴いていて楽しかったが感性が豊かになったなど感じなく ただ流し聴きしていたような気がする もちろん高い機器類ではなかったのでそう聴こえただけなのかもしれない。
収集家の方は集めて所有する事に価値があるので気持ちも分かるがオーディオを知ってからそのソフトの多さでその感性とやらが上質?であるかはまた別の話であると思っている。昔はメディア媒体という形のあるものだったので所有するにはスペースが必要でありその限界は各自分かっていた その形が無くなった現在では無尽蔵に小さなスペースに確保できる 欲望のままただその中に落とし込んでも余計な事も含め抱え込むだけ これは形のあるメディア(CDやレコード)でも同じように思う ただこれは趣味の世界、その人個人個人の生き方の問題でもある。 形のあるものはある種抑制が効く 見て分かるからだ しかし形のないものが多くなった現在 それを抑制するのは難しくなった コンテンツが沢山あります、情報が色々なところから得られます、音楽が気軽に楽に手に入ります…形のないものに対する宣伝が甘い誘惑とともに今 大量に流れている ほどほどが良いように感じている昨今である。
集めることよりも捨てることのほうがはるかに難しく、そして理性が必要だ、どこかの賢人がそう言っていたと覚えています。
「断・捨・離」というのは、だから誰でもできることではない、ということですね。
ほんのちょっとした勇気があれば だと思います。自分は結構失うものが多かったので捨てる事に余り迷いがない方だと思います。
私の父親は中々物が捨てられない人で執着心がある人間です。これは育ちにも関係しているのかもしれません。逆に母親は物を持たない人でどんどん捨てています その中でも残っているもの大事にしているものは他から見ても素敵な物ばかりです。