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肉体としてのジャズ

最近は昔の(60~70年代)ジャズ評論、批評を読むことが多くなってきた。その時代は実際自分も生きていたがジャズには無縁でありその当時の人はどういう感覚でジャズを聴いていたのか興味がある そういう中で 中平卓馬さんの「肉体としてのジャズ」が中々面白かった。

中平さんは肉体が本来持っていたエロス(笑)ー無限定な性の発散、暴力、歌、踊りといったものは個体内部に於いては抑圧され、ひきのばされ、こまぎれにされてしまった、そしてその代わりにそれぞれの専門分野が出来 中性化されてしまった それを眺めるもの鑑賞するものと化して欲望の代償行為として受け入られる。と述べている。
何やら難しい事を言っているが結局は自らの肉体を使っていなく代わりを求めているので肉体自体は喪失している 空っぽであるという事なのだろう。
そうなると今の時代はさらに代償行為を求めてばかりいるのでその空っぽさは大きくなって身体は単なる「精神の容器」といってもよいような気がする。

「ジャズは文化であり芸術としてもてはやされるようになった」(この時代でもそうであったのか?)と中平さんは続けている「ただし聴衆を聴き手、奏者を演奏者と化した姿ではジャズが本当に幸福かどうかわからない ジャズが芸術としてに地歩を固めれば固めるほど演奏者と聴衆との距離は離れていく それは本来のジャズからその本質的な肉体性を失わせることになるのではないだろうか」
これまた難しそうなことを言っている(-_-;)昔の人は理屈っぽい事を話すのが好きなのか? でも何となく分かる気もする。演奏者と聴衆と区分することで肉体的にも精神的にも中身が薄れていくような感じにはなる 演奏という専門の分野が出来それが本来なら自らの肉体を使ってやるのが道理であるのに代わりに行ってもらい自分は聴衆として見て聴いている分には感動はするがその度合いは減るんだろうな~

昔 レイ・ブライアントというピアニストが演奏を始める前にキタサンとその友人の隣で演奏仲間と知人かナンパしたのか知らないが何人かの若い女性達とワイワイ騒いでいた姿を思い出す。
キタサンも最初はそれがレイ・ブライアントとは知らなく陽気な外国人のオッサンかと思っていたのだが演奏開始時間になるとスクッと立ち上がり演台のピアノの方に向かった時はカッコよかった~。実際の演奏よりバカ騒ぎしていた姿の方にジャズを感じた その後レイ・ブライアントのCDを何枚か購入しミニコンポで家で聴いたが普通だった(笑) それから20年後に生意気にもオーディオ装置なるものを揃えてジャズを聴いているが演奏者と聴衆の関係のジャズはジャズではなく普通の音楽である。かろうじてその当時 演奏していた奏者の指使い、汗、体の動き等思い出しながら「肉体としてのジャズ」を想起し普通の音楽と化したジャズを今ではのんびり聴いている。
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レイ・ブライアントのLPは現在これしか持っていない。オスカー・ピーターソンの代役として予想外の喝采を受けたこちらのライブアルバム 地味だったレイ・ブライアントが脚光を浴びるきっかけとなったアルバムである。72年というモダンジャズにとっては中途半端な年代である それゆえCDと同じぐらいの価格で手に入る名盤である。コンサートやライブではサインを貰わない代わりに握手してもらうことにしている、レイの手はそれほど大きくない印象であったがとてもふくよかな感触であったのは今でも覚えている。

by kurama66644 | 2018-06-23 09:22 | ジャズ | Comments(0)